最近某雑誌で「ホタル特集」と題して川面一面に乱舞するホタルの写真が載っていました。そういえば大阪に戻ってきてもう5年くらいになりますが、一度もホタルを見たことがありません。以前住んでいた北九州の方では、毎年6月くらいになると、すぐ近くの貯水池で雑誌の写真のように辺り一面にホタルが飛び交う姿が観られたものでした。真っ暗な山の中でホタルの光を楽しんだのをなつかしく思い出します。ホタル祭りみたいなのも結構あって、自宅の裏の川でさえよく探せば一匹二匹は見つかったものでした。
 
そういうわけで、先日ふと思い立って土曜日の夕方から妻と子供を連れて、雑誌に掲載されていた高槻の摂津峡まで車を走らせました。(日頃自宅と診療所の往復しかしていないせいか、少しでも時間ができたらどこかに出かけたくなります。)この日も午後5時くらいからの出発でした。阪神高速、名神をとばして約40分くらいで摂津峡に到着、まだ明るいのでしばらく河原でサワガニや魚を捕まえて子供と川遊びに熱中。気が付くと子供は、洋服のまま川で泳いでいました。
 
しばらくしてだいぶ日も落ちてきたので、雑誌に載っていた「ホタルのよく見えるポイント」に移動しました。するとそこは何十台もの路上駐車があふれ、パトカーが取り締まりをするという異常な光景でした。「こんな所でホタルが見られるの?」というイヤな予感。橋の上から河原を眺めてもまだなんにも見えません。辺りを見回すと折りたたみイスまで持参している人もいて、想像していたホタル鑑賞とはだいぶ違う感じでした。日が落ちて約1時間、ようやく光がポツポツと見え出しました。この頃にはみんなお腹が空いてきて、「とりあえずホタル見たから帰ろか?」ということでそそくさと引き上げました。
 
その夜、インターネットでいろいろ検索してみましたが、大阪近郊で乱舞するホタルが見られる所はほとんどないみたいです。大阪のホタル名所はやっぱり「新梅田シティ」でしょうか?
 
(2004年6月)
家族が和歌山の高野山のふもとあたりにある美里町に移り約4年になる。次男の喘息のため、空気のよい所へと転地療養で転居した。移る前は発作を数回経験していたが、転居後は風邪をひき、発作がでそうな時でも一度もでていない。やはり空気というものは大切なものだと改めて思う。私は週末だけではあるが、初めての田舎暮らしでいろいろな体験ができた。
 
まずは家の修理である。古い大きな家を借りることができたが、窓や襖は開かず、隙間風が入り、天井板がゆれているという状態であった。窓の枠を削り、襖や障子の中央をジャッキアップしてつっかえ棒を入れたり、隙間ふさぎをしたり、初めての天井裏に入ったりであった。天井裏に入る時は決死の覚悟で、カッパを着て、タオルでほっかむりとマスク、手袋、と完全防備で入ったが、くもの巣もあまりなく。予想外にきれいで拍子抜けであった。太い梁に天井板をワイヤーでつるすという構造も、初めて知った。
 
家は貴志川のすぐそばにあり、夜は静かで川のせせらぎが気持ちよく響く。都会育ちの私は、雨の音とよく間違えるが。折角川のそばに居るのに、ということで川釣りにトライしたが、なかなか難しい。アマゴは釣れず、ジャコばかりである。貴志川のこのあたりは6月は蛍がすばらしい。家から少し下流の川辺の林は時期になると一面、蛍のほのかな光でいっぱいになり、とても幻想的で美しい。
 
美里に来て、最初に感動したのは星の多さ、きれいさである。夜空一面、星が輝いているというのは、大阪ではとても考えられない。星はポツン・ポツンとあるものだと思ってしまうからである。
美里での暮らしは、都会にいては感じられない自然を感じ、楽しむことができる。不便で、不自由なことも多々あるが、こういう体験をさせてもらえた子どもに感謝!?
 
(2004年5月)
杉本茂春先生
どんがらば ─ 医学のメッカ ─
今木(今来)の解剖学実験場 ─ なんばじま、由来記 ─
 
<1>
千日前は、いま盛り場ですが・・・
むかし、罪人の首切り場。
切りおとした首を幾日も台場に並べて、道行く人に見せびらかして、悪いことをするとこんな目に遭わせるぞと言いふらした。
 
<2>
その首のない胴体は、腐っていると蝿がたかり、蛆がわいてあたりに迷惑だから、首のないどんがらは広い木津川の向こう岸にある難波島に捨てさせた。
 
<3>
どんがらばとは、どんがらの捨て場のことである。
 
<4>
偉い医者が、千日前にさらし首の罪人が出て、首のない胴体が難波島に捨てられると、医学生ではないなにわの名医が、暗い夜道を提灯をさげて、解剖実習にでかけて行った。
 
<5>
いきおいこんで、ここまで書いて、全国高校野球、選抜野球の舞台は甲子園、甲子園球場の開幕が80年前と考えると、どんがらばが死語になるのは当たりまえ。
 
<6>
むかしどんがらばにもニッポンタンポポが咲いていたが、ニッポンタンポポはおろか、西洋タンポポも見かけることなどできはしない。
 
<7>
いま、私は64個の色石あそびを工夫しています。
 
<8>
どんがらばから一生かかってこんな脱線。
 
(2004年4月)
弘田先生・ツバメ
我が家には、二年前よりツバメが家の玄関の軒下に巣を作るようになりました。最初巣を作り始めた頃、落ちないように板を巣の下に打ち付けたりしましたが、ツバメにとっては大きなお世話のようでピッタリ来なくなりました。板を外すと数日後またせっせと何処からか取ってくるのかワラや土で作りだし、一週間ぐらいで完成。その後、その後決まった雌がすでにいたかのように、巣の周りをつがいで飛んでいました。その後いつの間にか巣の中には、4、5個の卵が入っており、三週間ぐらいでピヨピヨと巣から顔を出すようになり、道行く人の目にとまり、この時期ちょっとしたアイドル的存在になっていました。ツバメは冬は南方に渡り、夏は北半球の大部分で繁殖すると言われており、ツバメ、コシアカツバメ、イワシツバメなどの種類がいるらしく日本へは三月上旬から、五月上旬にかけ渡来し、十月中旬から十一月中旬までにフィリピン、マライ諸島、オーストラリアに渡去します。我が家にやってくるのは過去二回とも五月の連休明け頃ですが、昨年は二回繁殖し巣が空き家になったのは九月の終わり頃でした。昔の言い伝えで「ツバメが巣を作る家は長老になる」とか「不吉があると翌年からツバメがこなくなる前兆である」などと称しています。今年も渡来してくれれば良いと思う今日この頃です。
(2004年3月)
永田先生
みなさま、こんにちは、このホームページのお世話をさせていただいております永田です。地域に役立つ情報をお届けすべく、がんばっておりますが、お役に立てておりますでしょうか?会員の皆様には、毎月原稿をお願いし、期限を切って申し訳なく思っておりますが、御協力いただけますようお願いいたします。ホームページは、鮮度が命ですのでどうしても期限が必要なのです。
 
さて、この原稿を書いている今日は2/14バレンタインデーです。この行事のおかげで虫歯が増えているのではないでしょうか?バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、1958(昭和33)年に新宿のデパートで行われたチョコレートセールから始まったと言われています。当時の売上は3日間で30円板チョコ5枚と4円のカード5枚だけだったそうです。
 
自動車の運転の最中、ラジオから西洋のバレンタインデーについての事が流れてきました。日本では女性から男性へチョコレートを送りますが、西洋では、女性からだけでなく、男性からも送るそうです。ただし、チョコレートに限ったものではなく、お花と愛のメッセージだそうです。ほんとかどうか分かりませんが、それの方が良いように思いますが、いかがですか?
 
(2004年2月)
鳥羽史郎2
平成15年12月、年の瀬の慌しい金曜日のことでした。
私の診療所は朝10時からですが、患者さんはいつも9時半頃から来院されているようで、当日もいつものように毎週来られている患者さんは、私が診療所に着いた時待合室の長イスのいつもの位置に腰かけておられました。その患者さんは5年程前に御主人を亡くされ、2人の子供さんは独立され別々に家庭を持たれているようでした。ひとり暮らしで時間をもて余している為か、いつも一番早い予約をされていたようです。当院に通院され始めて10年近くなり、私は私自身の歯よりも詳しく把握している位でした。
年末の上、週末ということで交通量はいつもより多く、診療室でもトラックのクラクションや排気音、ディーゼルエンジンの騒音など聴こえ、混雑ぶりが推し量れる程でした。材料屋さんが2時間位遅れてやって来て“先生、人身事故があって車が全く動きませんわ。”と怒っていたのです。その時は特別に気に留めることもありませんでした。
ところが翌日、お孫さん2人の真中でほほえんでいるおばあさんの写真を持った警察署の方が訪ねて来られました。私に“このおばあさんご存じないですか”と聞かれるのです。
一瞬、身の毛がよだちました。昨日の交通事故の被害者が、10年来、金曜日の朝一番の患者さんだったのです。その方は事故による顔の損傷がひどく親族でさえ本人確認は無理ということで私の所へ来られたのです。
後日、専門の係官立ち会いのもと、歯科医の立場から歯及びその装着物等から本人であることの証明をさせていただきました。交通事故の現実に直面し、怖さを実感し、人の命の果敢なさを知らされた開業以来初めての最もつらい仕事でした。
心よりご冥福をお祈りいたします。
 
(2004年1月掲載)
鳥羽慶三
過去はしだいに先端が細まっていく道ではなく、狭いビンの首を通りぬけた奥、広々とした草地である。(フォークナー「エミリーにバラを」より)
 
学生時代に読んだ短編集の1フレーズ。何気なく読み過ごしていた。しかし60も半ばに差し掛かった今、実感と成り当時が広がり始める。
あの時は寒い師走だった様に思う。小倉(現北九州市)の魚町、友人と電車を待っていると、そこに赤信号で一台のタクシーが停車、無意識に中を見ると客もニコニコ笑いながらこちらを・・・・・。暫くするとウインドウが開きかかる。とその時信号が変わり車は走り去った。彼の顔を何処かで見た気がする。でも思い出せない。
ところが帰り道、電柱の破れかけたポスターにその顔が・・・・・。
 
「白木秀夫」(ジャズドラマー)来演。小倉市民会館。(労音)
“ロウオン”この言葉に響きに懐かしさを覚えるのは団塊の世代まで?
数年後この会館で、“ルイ・アームストロング”を観る。
トランペッターで歌手でもあるサッチモを聴くとは言わず、敢えて観たと表現するのは、黒いタキシードで片手にトランペットもう一方には深紅のハンカチ、歌い、吹き、語るその合間に再々、深紅のハンカチで、あの口を拭う。そのたびにあの口から“白い歯”が・・・・・。美しい。この姿が脳裏に焼き付いているからです。
 
「よーく考えよー “白い歯”は大事だよー ウーウ、ウーウ、ウウウウ・・・・・」
気になったら近くの歯科に相談に行こう。リズミカルなCMも頭に残る。
 
先日偉大なドラマー、ジョージ川口氏が急死の記事、ここから広がった過去の記憶でした。
因みに白木氏も十数年前に黄泉の国へ。妻は水谷良江(元ジャズシンガー)だった。(現水谷八重子)
私は火・木・土診療を休み息子にまかせてもっぱらスローライフを心掛けている昨今です。
 
2003年 暖かい晩秋 鳥羽慶三
 
(2003年12月掲載)
杉本先生
あなたはこの中のいくつの山を知ってますか?
 
あなたはこの中のいくつの山に登りましたか?
 
深山   大阪府最北端の山で大阪府・京都府・兵庫県の県境があります
羽束山  兵庫県の千刈水源地の主流 羽束川の水源地の山です
大台ケ原 一年前に東大台を回ったので 今回は西大台を一周
飯盛山  生駒山脈の北端にあり 「FM大阪」の無線塔が頂上に立っています
六甲山  芦屋川から六甲山最高峰に登り 有馬温泉に下りました
高取山  壷坂寺を経て 高取山の頂上には高取城の石垣が残り 吉野方面の展望良好
二上山  2003年元旦の「初日の出」を頂上で迎えました
松尾山  法隆寺の裏山で 厄除けで有名な松尾寺があります
金剛山  大阪府の最高峰 冬の樹氷が有名です 8000回も登っている人もいます
春日山  奈良・春日神社の神域で 広大な原生林があり 寺社とともに「世界遺産」に
多武峰  飛鳥 石舞台を越えて 談山神社のある山です
青山高原 頂上にはたくさんの風力発電の風車があります 立派な滝もあります
葛城山  360度の頂上からの展望はすばらしい 私の一番良く行く山です
昭和山  知っている人は知っている 大阪市大正区の最高峰
牛尾山  京阪追分から 音羽川をさかのぼります 途中に「音羽の滝」があります
学文峰  あまり知られていない 人の来ない静かな山です 金剛山の近くにあります
生駒山  大阪市内の小・中・高の学校の校歌に必ず出てきます
畝傍山  以下の三つは 大和三山として有名です 大和平野・大和盆地のなかの独立峰
耳成山  です この三つの山に登った日はひどく暑くて たんぼの中を歩くのはまだま
香具山  しですが 新興住宅地やスーパーのあいだを歩くのは 非常に苦痛でした
お菊山  豊臣秀吉の姪 お菊にゆかりのある 泉南の山 「関空」が一望です
これらの山々は 私がこの一年間に登ったところ 行ったところです。 金剛山のようにこの一年間に四回登った山も含まれています。 とにかく山はすばらしい 自然はすばらしい。 時間があれば このような近辺の山に登っています。 いっしょにどうですか?
 
(2003年11月)
足立先生
忙しい時に限って、あれもしなければこれもしたい、趣味にも時間を割きたい、と思いがちになる。年を取って暇が出来れば時間も充分に出来るしゆっくりやれる様に思う。しかし読書をするにしても長い時間は続かず、背や腰が痛くなり、いざあれをやってみようとするが余り気が乗ってこなかったりする。
海外も行った事がないので、ゆっくり行ける、海外なんて以前考えていたよりも便利になって楽に行けると言われる。しかし長時間乗り物に耐えられるか、心配が先行する。
トマスカーライルは「ただ遠くにかすんでいる物を見ることではなく、眼の前に、はっきり見えるものを実行に移すことである」と言っている様にやはり忙しくともそう思った時に時間をつくり、実行するのが良いと思う。
上記に海外に行くのも便利になったと書いたが、便利になった事でふと思った事を記してみたい。
交通が発達したのは良いが余りの騒音、排気ガス…等便利さと引換に健康を害するのではどうかと思う。
物を頂いた時に電話でお礼を言って済ます。ワープロ・パソコンで賀状、見舞状、お礼状、便り等を出す。何か人間味が伝わって来ない様に思え、字の上手下手関係なく手書きで認めた方が真心が通じる様に思う。
携帯電話も緊急の場合は助かるが、今でなくてもよく、特別大事な話でもなく、大した用もないが話してみたくて電話をする。かかってくればベルが鳴り出してしまう。便利で不便、自分の時間を取られた様に思う。
洗濯機、掃除機、電子レンジ…等便利になったがその余った時間はどこへ行ったのだろう。
テレビ、昼寝、バーゲン、グルメ、子供への必要以上の構い…そんな事だけではあるまいと、教養、ボランティア、人の為…にと時間を使っている人もあると思う。
インスタント食品、まあほとんどのものは電子レンジで「チン」お湯を入れる等ですぐ出来上がる。食も満たされた様に思うが添加物、人体に害する物の心配はないか、四季の食の温かさと言うものを感ぜずに物を味わうのはどうかと思う。
給料が銀行振込で明細書のみ同封。封筒に現金が入って受け取る、その厚さ薄さで仕事をやった実感がわく様に思う。
…と思うのは私だけか、便利になったが何か煮えきらない思いがする。
(2003年10月)
杉井伸也先生
平成15年1月吉日
寒さ厳しき折から、ますます御清栄の趣、誠に慶賀に存じます。さて、この度母校3年生(高校55期)の諸君には、蛍雪の功なってめでたく卒業式を迎えるところとなりました。
本校では卒業後50年の先輩方を現役の卒業式にご招待して参りました。皆様方には昭和28年(1953年)に市岡高校の5期生として巣立たれ、星霜重ねること早50年を迎えられました。これを機に後輩たちの晴れ姿に接し人生の先達として、御激励を賜りたく御案内申し上げる次第であります。
 
と言う卒業証書授与式への案内が届いた。私の卒業した大阪府立市岡高等学校は、いつの頃からか知らないが卒業50年を記念として毎年卒業式に招待することが慣例になっており、1953年卒業の私達5期生も2003年を迎え卒業後50年の歳月を経てその機会を持つ事になった。
私も卒業して昭和39年に大正区千島にて杉井歯科医院を開業し、市岡高校の関連としては患者さんの子供さんが市岡高校へ入学したとか、昭和62年3月の第59回選抜高校野球の出場に寄付を頼まれたくらいで何かと忙しく、高校生活を振り返る間もなかった。
第55回卒業証書授与式に出席して校舎が新しく立派になり玄関が当時の裏側になったように思う。出席者は30名(男性19名、女性11名)で卒業時の1割である。
出席者の名簿を見ても、又本人を見ても半数の人が分からなかった。会場(体育館)に入ると大変大きく、二階からも見える様になって立派だあーと思った。卒業生の家族も多数出席されていてお父さんお母さんも若々しく見えて、華やいだ雰囲気になっていた。入場する卒業生の服装、髪型を見て男女とも和洋装あり、特に女性のファッションを見て若い頃に遊んだキャバレー・クラブと場所を間違えたのかと思った。しかし色とりどりで青春時代を楽しんでいるように思えた。
式次第を見ても花束贈呈・送別の歌、家族の華やいだ多数の出席等を見ても今日では当たり前のようだが50年前の黒一色の卒業式を思い出しその歳月を思い起こした。
我々5期生の同窓会名簿を見ても約300名の卒業生の1割程が物故者になり、2割強の人が消息不明である。同窓会はいつ開くのか、幹事を引き受けてくれた人が他界し企画も頓挫しておりますとの報告。1日も、今日も、元気でいたいものです。大正区歯科医師会にも鳥羽英紀先生、谷田先生、坂本先生が市岡卒業生として続いています。元気で卒後50年の卒業証書授与式に出席を楽しみにして下さい。
 
(2003年9月)

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