6月になると、カーレースの3大タイトルの一つ、ル・マン24時間レースが開催される。ル・マン24時間レースとは、フランスのル・マン市にあるサルテサーキット+公道で構成された周回路を、24時間で最も多く周回したマシンが優勝するという世界一過酷な耐久レースのことである。
その優勝記録で最多周回数、言い換えれば最長距離が記録されたのはいつだったかご存じだろうか?これはかなり過去で、今から34年前1971年に5335,3Kmという途轍もない距離が記録されている。そのマシンは、ポルシェ917K(ドライバーは、G・V・レンネップとH ・マルコ)。
ポルシェ917とは(以降917と略す)どんなマシンであったのか、映画「栄光のル・マン」でスティーブ・マックインがドライブしていたマシンといえば、知っている方もおられるだろう。917は、1970年から耐久レースのレギュレーションが変更されることになったが故に誕生した。そのレギュレーションとは、排気量5000CC以下、重量800Kg以上、生産台数25台以上、をクリアーしたマシンが上限になるというもので、ル・マン優勝を目論むポルシェ社にとって大問題になった。というのもレギュレーションが決定した1968年当時ポルシェ社における最大のレーシングエンジンは3000CC、ライバルと目されるフェラーリ社やフォード社では5000CCエンジンの開発が容易と伝聞されている以上、悲願のル・マン初優勝がポルシェ社からさらに遠のくかもしれなくなったのである。
まだ2年先であることが幸いした。その3000CCエンジン(908型、水平対向8気筒)のピストン、シリンダーを流用して、4500CCエンジン(912型、水平対向12気筒)を1969年シーズンを前に完成させてしまう。実戦でテストして、来たるべき1970年に備えるという作戦である。案の定、トラブル続出でまともに走らず、このプロジェクトは失敗かとも思われたのだが、1969年のル・マンに於て結局リタイアするものの21時間トップを走り続けるなど活躍し始め、シーズンも終盤オーストリア1000Kmレースで917は初優勝を遂げる。まさに、ポルシェの名に恥じぬ速さと強靱な耐久性を合わせ持つレーシングカーの誕生であった。
そして欠点を洗い出した結果、新型ボディをまとい5000CCまでボアアップしたエンジンを搭載した1970年型917が登場。ワークス活動は、前年までフォードを走らせル・マンで数100m差でポルシェに涙を飲ませたJ・W・オートモティブティームに任せ、メーカーは改良に専念する分業体制で戦っていく。917は順調に勝ち進んでいき、迎えたル・マン24時間、ワークス・カーがトラブルで遅れていくなか、サポート・チームのザルツブルク・ポルシェからエントリーした917K(シャシNo.023、現在日本の松田コレクション・ポルシェミュージアムに動体保存されている)がポルシェに初優勝をプレゼントする(ドライバー、H・ヘルマン、R・アトウッド)。勢いに乗った917はチャンピオンを獲得する。最大のライバル、フェラーリ512Sは惨敗を喫する。
そして1971年、ポルシェは2年連続優勝を狙って、917L(L=Langロングテールの意味、K=Kurzショートテールの意味)というル・マン用スペシャルマシンを投入、圧倒的なポールポジションを獲得する。しかし、優勝したのは917K(シャシNo.053)、外観こそノーマルだが、中身はこれもスペシャル・マシンであった。だいたいこのマシンは完成重量が917中最軽量の760Kgしかなかった。それは通常のアルミ製であるパイプフレームシャシーをマグネシウム製にしてあったためだった。そのため、規定重量をクリアすべく重石を乗せねばならなくなったのだが、それを利用して燃料の増減やタイヤの摩擦による操縦変化を最小限にとどめるよう重石を車体各所に分散してしまっていた。これはドライバーの疲労を劇的に軽減した他、車体の疲労まで軽減してしまった。さまざまな要因も絡み、この917はル・マン史上最長不倒距離を樹立してしまった。
ただ917はあまりにも強すぎたため、1972年以降締め出されてしまい、活躍の場をアメリカの排気量、馬力、無制限のCAN−AMシリーズに移す。ところがここでも無敵になってしまって、とうとう行き場を失うはめになってしまう。
しかし917はポルシェ社に数々の技術革新をもたらしていった。例えばディスクブレーキ、世界で初めて放熱用の穴空きベンチレーテッドディスクを使用したのが1971年ル・マン優勝車なのである。また車体の軽量化もそうである。CAM−AMシリーズで実用化できたのがターボチャージャーである。これらの技術は後に1981年からのポルシェによるル・マン7連覇に全てつながっている。
その強さ故サーキットから追放された917。しかしその開発中に生まれたたくさんの技術は現在の車達にも活かされている。我々人間も名前ではなく実を後世に残せたら幸いではなかろうか。
最後に微笑ましいエピソードを一つ。1981年、たった一度だけ917はル・マンに蘇った。すでに老雄、予選も下位、本戦でも夜までにリタイア。しかし一時、917が8位まで順位を上げた時、観客、すべてのチームのピットから、惜しみない拍手喝采がおこったのである。
やはり917は偉大なマシンであった。
 
(2005年7月)

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